実印の使い方

印章鑑定のはなし

皆さんは、実印をどのような場面で使いますか?

『主に重要な契約のとき』

と回答される方が大半かと思いますが、『実印の押印を求められたとき』というケースも、意外にあるのではないでしょうか。

以前,「大枚はたいて作ったのだから,使わないと勿体ないよ。」という方がいらっしゃいました。確かに実印は,材質にもよりますが数万円はしますし,印鑑登録の手続きなどもあるので,「せっかく作ったのに」というお気持ちはわかります。

しかし,どんな書類にも実印を押印していると,厄介ごとを引き寄せるかもしれません。

※ここからは、実際にご相談のあった事例を、再構成しています。

『身に覚えのない借金をしたことになっているんです』

そう言った電話相談の口調に深刻さは感じられず、どちらかというと、人の噂話をするような、軽さを含んでいました。

差出人に,知人の名とその家族と書かれた手紙が届き,ずっと音信不通だった知人が急逝したことを知り,電話番号が記載してあったため,電話を掛けたそうです。電話口の男性は,30~40代くらいの若い声で,淡々と話をする方で,知人の遺族であるということを会話から察し,「知人の息子」と解釈しました。そのときに,「預かっていたものがある」と言われ,渡したいので会えないか。と聞かれ,品川駅付近のホテルのロビーで待ち合わせることとなりました。

数日後,待ち合わせの場所には,電話口の男性と思しき30代くらいの男と,60代くらいの女性が立っていました。
二人を見て,「知人の奥さんと息子さんだろう」と思い,ロビー奥の喫茶室を勧められました。

テーブルにつき注文を済ませると,一通りの弔辞を伝え,それから無地の封筒を香典替わりとして渡しました。相手の女性は一度断り,こちらが押すと受け取り,この流れがごく自然だったため,「知人の奥さん」という考えが固定されました。

面識もないので,会話は専ら知人との思い出話になりましたが,二人は相槌を打つだけで,二人から知人に関する話は出ませんでしたが,急逝したため,ショックが残っているのではと察するに,会話も続かなくなりました。そのタイミングで,電話口の男性と同じ声の男が,カバンからクリアファイルを取り出したので,「知人から預かっていたもの」を出したのかと思った刹那,「故人があなたに貸したお金を,返していただきたい。」と切り出されました。

「え?」と思わず声が出て,一瞬「いくら?」と不安がよぎり,すぐに「金なんか借りてない」という,否定で心が覆われ,「何ですか?」と切り返しました。

男は『金銭借用書』と題された3枚の書類をテーブルに並べ,「利息は書いていないので,お貸しした満額をご返済くだされば結構です。」と続けました。金銭借用書は,全体がワープロで作られており,借主欄には,自分の住所と名前が記載されている。1枚につき100万円を借りていて,2年おきの間隔がある。

「何だこれは」思わず声をあげてしまったが,二人は冷静である。

「実印が押されていますよ。」

今度は女性が切り出す。
「6年間で300万円。何に使われたのかは存じませんが,今から10年くらい前のことですから,覚えておいでですよね。生活が楽ではありませんので,返していただきたいのです。何日ぐらいでご用意できますか?」落ち着いた口調で淡々としている。男が続ける。
「遺品整理の際に,机の引き出しの奥から,封筒に入った状態で見つかりました。封はしていなかったので,中身を確認し,借用書に記載されてる住所へ,私が手紙を送りました。貸してあったお金のことを書くと連絡してもらえないと思ったので,手紙では触れませんでしたが。」聞き返したいことを先に話され,言葉を失ってしまった。女性が続ける
「ご自宅まで受け取りに伺っても良かったのですが,ご家族に内緒の借り入れではいけませんし,それでこのような場を設けたのです。差し支えなければ後日,お宅へ伺いますが,いかがでしょう。」

何度か否定はしたものの,二人は「実印が押されているでしょう。」といい,また,「とにかくお金を返してください。」と,少しづつ声が大きくなってきている。
冷静になって二人の話を総合すると,「知人が亡くなった後に,遺品の中から,自分が借主の金銭借用書が出てきた。ご家族はそれまで,知人が人にお金を貸していることを知らなかったが,連絡が取れたので,返済を求めている。」
このままでは収まりがつかないが,認めるわけにもいかないため,金銭借用書のコピーをもらえないかと話すと,持参したものはカラーコピーだったので,そのまま受け取り,「一週間以内に連絡します。」という約束をして,ようやくその場を離れることができた。

仕事帰りに法律相談を受けたが,状況は芳しくない。

しかし,あれこれ考えてみても,知人から借金などしないし,全く身に覚えがない。不自然なのは,押されている実印が,自分のものと同じようであることだ。実際の印影と重ね,ライトで透かすとぴったり一致しているように見える。

『身に覚えのない借金をしたことになっているんです』

契約を交わすような間柄ではありません。

「もともと趣味の山歩きが高じて入ったサークルのメンバーの一人で,齢が近いので,山歩きの時に一緒なら会話を交わし,終わると飲みに行くような,ざっくばらんな関係でした。サークルは数年前に退会して,携帯電話は不通だったようです。」電話相談を受けた私は,お二人の関係を尋ねましたが,このような回答でした。

比較鑑定を行うには,公正な姿勢でなければならない

そのため,肩入れはしないのですが,話だけ聞くと印鑑偽装が頭をよぎりました。しかし,実印の印影の入手ルートは?

ご相談の末,この方は鑑定依頼をされることになり,「金銭借用書」のコピー3通と,印鑑登録証明書のほか,弊所でご用意している「鑑定依頼申込書」,ことの顛末を書いたものを送っていただくことになりました。

しかし,届いた封筒を見てを驚きました。封筒の封かんに,実印のようなフルネームの印が押されているのです。「なんだろう,これ・・・」
開封してみると,「金銭借用書」のコピーなど,お願いした書類はすべてそろっているのですが,ことの顛末が書かれた「送り状」と,「鑑定依頼申込書」の氏名の後ろに,実印が押されているのです。それは同封された印鑑登録証明書によって明らかとなりましたが,結果として書類の全てに実印が押された状態になっているのです。

「印章鑑定のご依頼なので,ご丁寧に実印を押してあるのかな?」

そう思いつつも,着荷連絡の際に確かめてみると,「いつもそうしてる」とのご回答が。

この方曰く,「大枚はたいて作ったのだから,使わないと勿体ないと思って。私は銀行印も実印ですし,いつも手の届く場所に置いてますよ。」とのこと。
更に,いろいろとうかがっているうちに,以前,知人の方が退会した後,山の写真を何回も送っており,その際の手紙にも,実印を押印していたことが明らかとなりました。

印章鑑定の結果,「印影は一致」

というものでしたが,印影の一部に,便箋などの罫線と見られる線が微かに写りこんでおり,スキャニング偽造の可能性が高まりましたので,先方へ原本を見せるよう,請求するように進言しました。

その連絡をした後,相手の電話は不通となり,知人の住所地を尋ねると,そのマンションには全く別の人が10年近く前から住んでいて,それ以上,個人で追跡することができなかったそうです。

こうして,お客様のご相談は一件落着

お客様はその後,銀行印を改印し,実印を軽々しく扱うことはしないとおっしゃっていました。このお客様は,大金を搾取されることはありませんでしたが,危ういところまでいき,弁護士相談や,印章鑑定の実費が発生してしまいました。金銭的にもマイナスとなってしまいましたが,知人の本当のご家族かも知れないとの配慮から,警察沙汰にするつもりはないそうです。


ここまでお読みいただきありがとうございます。そして皆さんは,実印をこのような場面で使っていませんか?